冬の朝5時。
アラームが鳴る。
カーテンの隙間から外を見ると、まだ夜だった。
「寒いね。」
着替えながら妻が言う。
「今日はいちばん寒いかも。」
そんなことを話しながら支度を済ませる。
後部座席には、前の日から積んでおいたクラッシュパッドが二つ。
クライミングシューズ、チョークバッグ、水筒。
忘れ物がないかだけ確認して車を走らせる。
コンビニで買ったコーヒーが、まだ熱い。
高速道路へ入る頃には、街はすっかり眠っていた。
車の中では好きな音楽が静かに流れている。
話す日もある。
話さない日もある。
どちらでもいい。
同じ場所へ向かっていることが、なんとなく心地いい。
東の空が少しだけ白くなる。
山が近づくにつれて、街の景色は森へ変わる。
御岳へ向かうこの道を、もう何度走っただろう。
駐車場へ着くと、冷たい空気が一気に流れ込んでくる。
冬の御岳は、本当に寒い。
クラッシュパッドを背負って歩き始める。
川の音が聞こえる。
鳥の声が聞こえる。
踏みしめた枯れ葉が、小さく鳴る。
吐く息だけが白い。
この道も、何度歩いただろう。
向かう場所は決まっている。
水の詩岩。
今日も、あの課題だ。
「今日も水の詩?」
妻が笑う。
「うん。」
答えはいつも同じだった。
他にも課題はたくさんある。
でも、不思議と違う岩へ行こうとは思わなかった。
登れない一本が、ずっと頭から離れなかった。

ボルダリングを始めたのは、妻がきっかけだった。
付き合い始めた頃、一緒にジムへ行った。
身体を動かすことは昔から好きだった。
ボクシングも、キックボクシングも、サーフィンも、キャンプも。
筋トレも十年以上続けている。
だから最初は、「登るだけなら何とかなるだろう」と思っていた。
ならなかった。
力いっぱい引いても、身体は浮かない。
腕はすぐに張る。
届きそうなホールドに、あと少しが届かない。
隣を見ると、自分より細い人が静かに登っていく。
その人は何度も壁を見ていた。
すぐには登らない。
少し離れて壁を眺め、また近づき、もう一度離れる。
ようやく取りついたと思ったら、迷いなく登っていく。
気がつくと、自分も同じことをしていた。
壁の前に立つ。
しゃがむ。
ホールドを見る。
一歩下がる。
もう一度見る。
まだ登らない。
登るより、見ている時間の方が長い日もあった。

初めて御岳へ行った日、水の詩岩の前で立ち尽くした。
ジムとは何もかも違う。
色もない。
テープもない。
どこを持てばいいのかも分からない。
岩は、ただそこにあるだけだった。
最初の日は、何もできなかった。
一手進んでは落ちる。
また同じところで落ちる。
帰り道。
「惜しかったね。」
妻が言う。
「惜しくないよ。」
そう答えたけれど、本当は悔しかった。
だから次の週も御岳へ行った。
また落ちた。
その次の週も行った。
少しだけ進んだ。
でも、また落ちた。
朝5時に起きる。
高速を走る。
森を歩く。
岩の前に立つ。
落ちる。
帰る。
また翌週、同じことを繰り返す。
岩は何も変わらない。
変わるのは、自分だけだった。
前は見えなかった足場が見える。
届かなかった一手に、指先が触れる。
昨日できなかった動きが、今日は少しだけ自然になる。
少しずつ。
本当に少しずつ。
ある日、いつも落ちていた一手が止まった。
「あ。」
思わず声が漏れる。
足を置く。
身体を返す。
最後のホールドへ手を伸ばす。
届いた。
岩の上へ立つ。
振り返ると、多摩川が静かに流れていた。
冬の空は高く、風は冷たかった。
景色は初めて来た日と何も変わらない。
変わったのは、自分だけだった。

今では瑞牆へ行くことも増えた。
それでも、外岩と聞いて最初に思い浮かぶのは御岳だ。
朝5時に起きたこと。
コンビニのコーヒー。
助手席で眠そうにしている妻。
森の中を歩く時間。
そして、水の詩岩。
グレードを更新したことよりも、何度も同じ岩へ通った時間の方が記憶に残っている。
仕事のために始めた趣味じゃない。
何かを学ぼうと思って通ったわけでもない。
ただ、登れない一本が悔しくて、また来週も行こうと思った。
休日は、仕事のことなんてほとんど考えていなかった。
でも月曜日になると、不思議と岩の前で立ち止まっていた時間が、自分の中に残っている。
急がずに一歩下がること。
答えが見えないなら、もう少し眺めてみること。
遠回りに見える時間が、結局はいちばん近道だったこと。
あの冬の朝、妻と何度も御岳へ向かった理由は、今でもうまく説明できない。
好きだったから。
たぶん、それだけだ。
でも、好きだから続けた寄り道は、少し時間をかけて、仕事をする自分のところまでちゃんと届いていた。



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