雑談

仕事の寄り道 #06|冬の朝5時、岩を登りに行く

雑談

冬の朝5時。

アラームが鳴る。

カーテンの隙間から外を見ると、まだ夜だった。

「寒いね。」

着替えながら妻が言う。

「今日はいちばん寒いかも。」

そんなことを話しながら支度を済ませる。

後部座席には、前の日から積んでおいたクラッシュパッドが二つ。

クライミングシューズ、チョークバッグ、水筒。

忘れ物がないかだけ確認して車を走らせる。

コンビニで買ったコーヒーが、まだ熱い。

高速道路へ入る頃には、街はすっかり眠っていた。

車の中では好きな音楽が静かに流れている。

話す日もある。

話さない日もある。

どちらでもいい。

同じ場所へ向かっていることが、なんとなく心地いい。

東の空が少しだけ白くなる。

山が近づくにつれて、街の景色は森へ変わる。

御岳へ向かうこの道を、もう何度走っただろう。

駐車場へ着くと、冷たい空気が一気に流れ込んでくる。

冬の御岳は、本当に寒い。

クラッシュパッドを背負って歩き始める。

川の音が聞こえる。

鳥の声が聞こえる。

踏みしめた枯れ葉が、小さく鳴る。

吐く息だけが白い。

この道も、何度歩いただろう。

向かう場所は決まっている。

水の詩岩。

今日も、あの課題だ。

「今日も水の詩?」

妻が笑う。

「うん。」

答えはいつも同じだった。

他にも課題はたくさんある。

でも、不思議と違う岩へ行こうとは思わなかった。

登れない一本が、ずっと頭から離れなかった。


ボルダリングを始めたのは、妻がきっかけだった。

付き合い始めた頃、一緒にジムへ行った。

身体を動かすことは昔から好きだった。

ボクシングも、キックボクシングも、サーフィンも、キャンプも。

筋トレも十年以上続けている。

だから最初は、「登るだけなら何とかなるだろう」と思っていた。

ならなかった。

力いっぱい引いても、身体は浮かない。

腕はすぐに張る。

届きそうなホールドに、あと少しが届かない。

隣を見ると、自分より細い人が静かに登っていく。

その人は何度も壁を見ていた。

すぐには登らない。

少し離れて壁を眺め、また近づき、もう一度離れる。

ようやく取りついたと思ったら、迷いなく登っていく。

気がつくと、自分も同じことをしていた。

壁の前に立つ。

しゃがむ。

ホールドを見る。

一歩下がる。

もう一度見る。

まだ登らない。

登るより、見ている時間の方が長い日もあった。


初めて御岳へ行った日、水の詩岩の前で立ち尽くした。

ジムとは何もかも違う。

色もない。

テープもない。

どこを持てばいいのかも分からない。

岩は、ただそこにあるだけだった。

最初の日は、何もできなかった。

一手進んでは落ちる。

また同じところで落ちる。

帰り道。

「惜しかったね。」

妻が言う。

「惜しくないよ。」

そう答えたけれど、本当は悔しかった。

だから次の週も御岳へ行った。

また落ちた。

その次の週も行った。

少しだけ進んだ。

でも、また落ちた。

朝5時に起きる。

高速を走る。

森を歩く。

岩の前に立つ。

落ちる。

帰る。

また翌週、同じことを繰り返す。

岩は何も変わらない。

変わるのは、自分だけだった。

前は見えなかった足場が見える。

届かなかった一手に、指先が触れる。

昨日できなかった動きが、今日は少しだけ自然になる。

少しずつ。

本当に少しずつ。

ある日、いつも落ちていた一手が止まった。

「あ。」

思わず声が漏れる。

足を置く。

身体を返す。

最後のホールドへ手を伸ばす。

届いた。

岩の上へ立つ。

振り返ると、多摩川が静かに流れていた。

冬の空は高く、風は冷たかった。

景色は初めて来た日と何も変わらない。

変わったのは、自分だけだった。


今では瑞牆へ行くことも増えた。

それでも、外岩と聞いて最初に思い浮かぶのは御岳だ。

朝5時に起きたこと。

コンビニのコーヒー。

助手席で眠そうにしている妻。

森の中を歩く時間。

そして、水の詩岩。

グレードを更新したことよりも、何度も同じ岩へ通った時間の方が記憶に残っている。

仕事のために始めた趣味じゃない。

何かを学ぼうと思って通ったわけでもない。

ただ、登れない一本が悔しくて、また来週も行こうと思った。

休日は、仕事のことなんてほとんど考えていなかった。

でも月曜日になると、不思議と岩の前で立ち止まっていた時間が、自分の中に残っている。

急がずに一歩下がること。

答えが見えないなら、もう少し眺めてみること。

遠回りに見える時間が、結局はいちばん近道だったこと。

あの冬の朝、妻と何度も御岳へ向かった理由は、今でもうまく説明できない。

好きだったから。

たぶん、それだけだ。

でも、好きだから続けた寄り道は、少し時間をかけて、仕事をする自分のところまでちゃんと届いていた。

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